武田信玄最後の戦いへ
信長編も佳境ですが、ここで信長編の前の主人公武田信玄と、後に戦国時代を終わらせる徳川家康に登場してもらいます。
信長包囲網に信玄参戦
浅井や朝倉といった「vs信長包囲網」を見てきましたが、ついに武田信玄までもが参戦に動きます。
元亀3年、51歳となった武田信玄は3万の大軍を率いて上洛を始めました。
武田軍 (51歳、兵力30000) vs徳川軍 (30歳、兵力10000)
上洛戦を開始した武田軍は徳川の城を攻め落としながら侵攻します。
あの信長でさえ貢物を送り続け同盟を維持しようとし続けた武田軍。
キャリアも戦力も桁違いの信玄は、徳川家康に対し「一切眼中になし」と浜松城を通り過ぎてしまいます。
負けるとわかっていても
戦えばどう考えても負けが明白な家康でしたが、「黙って通すのは恥」とまさかの強引に追い打ちをかけます。
信長から援軍3000は来たものの
戦の強さに加え倍以上の兵を持つ武田軍に対し、若気の至りの家康が奮起してしまった以上、徳川軍と織田の援軍も命を使い戦わなくてはなりません。
徳川軍はせめて勝機がありそうと、祝田の坂を下る武田軍に背後から攻め込もうとします。
全て罠
しかし、百戦錬磨の武田信玄が徳川の若造にわずかな勝機も与えるはずがありません。
信玄は初めから野戦におびき出すところまでを計算し、徳川を挑発するような進路を取ったのでした。
徳川軍完敗
信玄や信長がいなくなった世では「野戦最強」とも謳われた家康ですが、この時点では武田信玄相手にまともに戦うこともできません。
完全なる兵力差に徳川軍は崩壊し、多大な被害を出しながら命からがら城に逃げ帰るのがやっとでした。
死傷者 (武田軍200, 徳川軍2000+有力武将)
家康の無謀な戦いのせいで、徳川軍は10倍以上の死傷者を出しただけでなく、織田軍の武将も含めて有力な人材を失います。
余談ですが、敗走の中で家康の身代わりとなり討ち死にした夏目吉信は文豪夏目漱石の先祖でした。
絶体絶命の織田軍だったが
この三方ヶ原の戦いで同盟の徳川軍が惨敗したことは、織田軍にとっても致命的でした。
仮に信玄が信長包囲網に加わっていた場合、果たして歴史は根本から変わっていたかもしれません。
1年後に武田信玄死す
織田信長と言えど実は「九死に一生」の連続であったことは分かってきたと思います。
しかし、信長の恐ろしいほどの強運なのか、徳川軍を破り三河に侵攻した武田軍でしたが、1か月後に信玄の病気が悪化し進軍を止めることになります。
信玄、そして武田家の滅亡
そのわずか1年後に武田信玄は病死します。
武田信玄の死は戦国の一つの時代の終わりであり、織田信長という最大の時代も残り10年を迎えることになります。
◇◆関連歴史書(再掲)◆◇
数多の歴史本を読んできましたが、歴史小説のベスト3に入る代物です。
書評も書いていますのでよければ参考にしてみて下さい。
【歴史小説】 光秀の定理 [垣根涼介氏]
『光秀の定理』
垣根涼介氏
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著者:ひさなお
TOEIC満点、作家、投資家、IT企業グローバル人事、馬券師。
慶應義塾大学→UCLA→大手IT企業。
第3回マイナビ作品コンテスト最優秀賞受賞。
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